サンデー毎日に見る
コスモメイト攻撃の背景と黒い人脈 (下)


『サンデー毎日』(4月18日号・4月25日号)の宗教団体コスモメイト攻撃の記事は、コスモメイトの教祖・深見青山氏の信用失墜を図って、公然と分派活動に走ったために解雇された元スタッフの一方的な“タレコミ”によって捏造されたものであり、しかも、この仕組まれた一連のコスモメイト攻撃と分派活動の首謀者が、元最高幹部のX氏であるということは、前号で報じたとおりである。そのX氏の正体とその分派活動の実態を明かすと・・・・・・。




X氏の正体は村田久聴氏

『サンデー毎日』などのマスコミにタレ込んだ反コスモメイトのメンバーは、コスモメイトの本部がある東京・西荻窪の駅前でコスモメイトを批判・中傷するビラを配ったりアジ演説をするなど今なお活発に活動を展開している。しかし、そのビラや演説にはX氏の名はおろか、その影すら見当たらない。まるで「X氏は一切関係ないんだ」と、X氏をかばっているかのようである。
 実際、タレ込まれた例のマスコミ関係の間からも伝わってくる話によれば、彼等は「今回のことはわれわれが独自でやっていることであって、X氏は一切関係していない。向こう(コスモメイト)はX氏が首謀者だといっているが、そんなことはない」と強調しているという。
ところがである。去る四月八日、コスモメイト・ハワイ支部に所属する会員の家に東京の毎日新聞(サンデー毎日)から国際電話が入り、「コスモメイトについて取材をしたい」と伝えてきた。驚いたその会員が「私の名前と電話番号を誰から聞いたのか」と尋ねたところ、その記者はあっさりと「元コスモメイトの村田久聴さんです」と答えたという。
 この「村田久聴」なる人物こそ、一連のコスモメイト攻撃の仕掛け人であり、黒幕であるX氏その人なのである。




数度の宗教遍歴後、コスモメイトへ

 村田久聴氏は本名を村田康一といい、昭和一七年一月一六日、兵庫県尼崎市に生まれている。その村田氏には、いくつかの「顔」がある。その「顔」を氏がコスモメイト在職中に著わした『ツキを呼ぶ神霊運』の著書紹介から引用すると―――。
 「村田久聴(ひさあき)――― 一九四二年生まれ。ホノルル大学講師(東洋思想、心理学専攻)。映像作家、映画監督、著述家、救霊師、幼少の頃より精神世界にひかれ、宗教遍歴を重ねうるうち、神秘と科学の接点を求め、ニューサイエンスに踏み込み、著述、講演で活躍。一九七二年度の日本映画人代表としてソ連に招待される。瞑想の国際的組織で瞑想講師としても活躍するが、ある限界を感じて転身。天才神霊家・深見青山氏を師と仰ぐ。著述多数」
 映画作家と映画監督とどう違うのか、門外漢にはよくわからないが、それにしても驚かされるのはその肩書きの多さであり、それを列挙するとかなり自己顕示欲の強い人物ではないかと想像される。そのあたりについて彼をよく知る元スタッフはこういう。
 「まったくそのとおり。あんなに自己顕示欲の強い男はちょっといませんね。日本を代表する映画監督としてソ連政府に招待されたという話は、それこそ耳にタコができるくらい聞かされましたよ。それにしては変なんですよ。代表作については一度も聞いたことがないんですから」
 われわれ取材班も村田康一という映画監督を知っている人物を求めて関係者を当たってみたが、ついに探し当てられなかった。
村田氏は、前記著者紹介で自ら語っているように若い頃から精神世界に興味があったらしく、コスモメイトに辿り着くまでいくつかの宗教遍歴を重ねてきた。瞑想研究の「TM」や「世界真光文明教団」などがその代表的なところだが、彼の過去をよく知る人物はこう指摘する。
 「村田さんはどこでも同じようなことをやってきたのです。TMでも真光でも仲間を誘って大挙して入会してはいろいろ問題を起こし、また大挙して辞めていく。
 そんなことばかり繰り返してきたのです。自己顕示欲が異常なほど強く、自分が教祖になりたいクチだから、どこに行ってもうまくいくはずがないのです」




入会早々、最高幹部に

 そんな村田氏が深見氏の著書を読んで、コスモメイトに入会したのは昭和六一年。昭和六二年の四月にスタッフになり、同五月には新設された傍系会社・橘出版の代表取締役社長就任している。つまり、スタッフになって即、最高幹部になったわけである。当時から村田氏を知り、その後も村田氏の言動を知るコスモメイトのスタッフの一人はこう語る。
 「彼はスタッフになって間もなく、世界真光文明教団やTM時代の仲間を次々にコスモメイトに入会させてはスタッフにするように深見先生に提案した。このためスタッフが急に増え、内部では彼らのことを“村田組”なんて呼んでいた」
 入会わずか一年で村田氏がコスモメイトの大幹部になったのは、コスモメイトのスタッフがみな若くて社会経験に乏しく、年長者が少なかったことが最大の理由であった。彼より年上といえば、やはり最高幹部である栂村繁郎氏一人であり、村田氏が「組みしやすし」と読んだとしても不思議ではない。
 かくして、村田氏は内部での地歩を着実に固めていき、橘出版の代表取締役を筆頭に、@支部運営担当、Aマスコミ担当、Bクレーム処理担当、C運命鑑定、D救霊師―などの仕事に従事するようになるのである。
 特に@ABの仕事を通じて村田氏は、コスモメイト内での“影響力”を維持・拡大していったのである。




平成三年四月から始まった分派活動

 自らの野望を表現するため、村田氏が本格的な画策に走り始めたのは平成三年四月のことだ。その頃から村田氏には四、五人の秘書がつくようになったのだが、そのうちの一人はこう証言する。
「平成三年四月頃のことです。村田先生は子飼いのメンバーを集めては夜な夜なこんなことを話していました。『オレをクビにすることは深見でもできやしない。オレを首にすればどんな恐ろしいことになるか、深見自身がよく知っているからだ。オレは以前徳間出版に勤めていたが、その時の仲間が今、新潮社や講談社や集英社にいるので、彼らに情報を流せばコスモメイトなんか簡単に潰れてしまう』と、それはえらい鼻息でした」
 さらにこう続ける。
「平成三年十月のことです。村田先生から、『近い将来、コスモメイトを離れて別会社をつくるから君も一緒にやらないか』といわれました。その時私は断りましたが、それを境に村田先生の態度が一変し、私を敵視するようになりました」
 深見氏の弟子の立場にある村田氏が、深見氏を公然と批判するのを聞いてびっくりしたが、まさか本当に分派活動をしているなどとは、この時点では思ってもみなかったという。




一段とエスカレートする分派活動

平成四年に入ると、村田氏の分派活動は一段とエスカレートする。
 ここに一枚のフロッピーがある。このフロッピーには、村田氏の秘書であったM子(“分派仲間”とともに退職)から村田氏宛ての「業務報告」が入力されている。
 しかし、タイトルこそ「業務報告」となっているものの、その実体はスパイ報告そのものなのである。まず、各部署に散らばっている“分派仲間”から内部情報を紹介し、続いてスタッフの誰それがどんな発言をしたかについて逐一報告したあと、こんなことを記している。
「不自然と思われないように、E・Fさんを呼ぶには、十一月二十五日(童話の講座研究会がある日)の前後が良いかと思われますが、ポチが東京で散歩をしているかぎり、いつなんどき呼び出されるかわかりませんので、ポチの移動日直後が無難のような気がします」
 ポチとは無論、深見氏自身のことである。『サンデー毎日』で取り上げられたフロッピーにもポチと表現されていたことと合わせて考えれば、メンバーの間で深見氏がポチの暗号で呼ばれていたことはまず間違いない。
 要するに村田氏は、コスモメイトの内部の動き、および深見氏の動きを監視させる一方、「業務報告」という名のスパイ活動の報告書を提出させていたわけである。
 こうした村田氏の背信行為はようやく他のスタッフの気づくところとなり、これを知った村田氏は昨年暮れ、自らすべての役職を離れることを申し出、顧問に退いた。しかし、常軌を逸したあまりにも激しい分派活動の実態が明らかになったことによって、平成五年二月十七日、解雇という形でコスモメイトを去って行ったのである。




決定的証拠

 村田氏が去って数日後、コスモメイト長崎支部のごみ箱の中から、村田氏自筆の二通の手紙のコピーが発見された。なかなか見事な筆跡でしたためられたその二通の手紙は「丘叡」なる人物に宛てられたものだが、その内容は「分派活動の現状を知らせる」ことと「対マスコミ策動の支援を請う」ことの二点が骨子になっている。皮肉にも、村田氏がコスモメイトで展開してきた背信行為と分派行為を裏付ける決定的な証拠となるものなので、一部抜粋して紹介する。

「丘叡大人
同志村田久聴拝

 さて、FAXいただきありがとうございます。しかし、二枚目が不着ですので、よろしくお願いいたします。
 組合が立ち上がり、女性陣の立ち上がりまで時間をつなげる予定です。何から何までお世話になりますが、今後ともご指導賜りますよう改めてお願い申し上げます。また連絡します」
「丘叡大兄
村田久聴拝

 ご連絡いただき有難うございます。具体的なお手配の速さに感謝申し上げます。
 さて、記者との打ち合わせは拙宅で行ないたいと思います。二月十六日、A・午前10月30分、B・午後三時―どちらかをお選びください。
※ 午後二時は拙宅より、貴兄ご指示のA社長にK君とともに電話を入れます。十七日にコスモメイトの組合(極秘)が立ち上がり、要求書を深見氏に手渡す予定。これが実際に実行されれば、まず仰天するはずです。カメラマンを待機できるといいんですが・・・・・・。

 お願い
※ 社旗をお立てにならぬよう(車の場合)、丘叡大兄から記者諸氏へのご連絡をお願い申し上げます。有難うございました。

(追)組合の立ち上がりの日時がズレる可能性もあり微妙な段階です」
この手紙によれば、二月十六日にマスコミの記者と接触する予定になっているわけだから、まだコスモメイト在職中、正確にいえば顧問であったときからこのような分派活動を活発に展開し、コスモメイトを深見青山氏の信用失墜を画策していたということである。




皇太子御成婚を決めたのは村田康一氏!?

 もう一つ、村田氏の人間性を知る上で貴重な情報が二つある。
「村田さんはよく『オレの家には電話が四台あって、そのうち一台は宮内庁とのホットラインだよ』といっていました」(元村田氏秘書)
 ホットラインとはどういうことか。今年一月六日、村田氏は自らの誕生祝いと新年会を兼ねたパーティーを目黒の宴会場で催した。参加者は、氏の息のかかったコスモメイト会員を中心に百六十名余りに及んだが、この席に列席した会員さんが次のように証言している。
「村田さんは『今回の御成婚について、宮内庁から問い合わせがあったので宜しいと答えた。このひとことで決定したものです』と、誇らしげに話していました」
 こんな発言を宮内庁が知ったら、いったいどう反応するか。いや、それよりも良識ある国民が黙っちゃいないではないか。
 それはさておき、今回の騒動を総括すれば、権力志向者が演じた猿芝居に、一部会員とマスコミがまんまと乗せられたお粗末の一席ということになろう。
「バカを見たのはサンデー毎日などのマスコミだが、まあ、これは自業自得。悲劇的なのは村田氏の口車に乗せられた会員グループですよ。これらの人たちは、純粋に宗教を拠り所する者、単純バカ、村田氏の信奉者などがさまざまですが、その中の多くは、自分たちの愚かさを悔い、グループからも抜けようと考え始めいていると聞きます」(中立の立場にあるコスモメイト関係者)
 そして、気がつけばただ一人、いずれ村田氏は、人目をさけて生きていかなければならなくなるだろう。いや、現に、氏の行方は杏として知れない。

(武藤勇と特別取材班)



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