なぜミニ宗教は狙われる!

創られたコスモメイト(セクハラ教祖)スキャンダルに踊るエセジャーナリズム
本誌編集部


かいまみたくなる宗教の閉ざされた世界

「新興宗教叩きというのは、ネタぎれのときにはもってこいの企画なんですよ。
まさに困ったときの“神頼み”とでもいうかんじですね」
某大手出版杜の雑誌記者は、このように言った。
たしかに宗教ネタというものは、なぜか興味をもって読まれる。それは、宗教の世界が、外部からは容易に窺い知ることのできない、ある種の閉ざされた世界であり、なにやら秘密めいた印象を受けることによって、それを覗いてみたくなるのかもしれない。
「ただ、毎回毎回おんなじ教団をとりあげるっていうことは一般的にはやらないですよ。まず、情報の質と量からいったら、そう何度も記事にできるようなネタはめったにありません。せいぜい二回から三回がいいところでしょう」
ある週刊誌の編集者の話をきいてみた。
「それでも営業的には、たとえば“連続追及”とタイトルをつけるだけで、何度もくりかえして記事にしてきたような錯覚を読者にあたえるし、これからも続けてとりあげていくような印象をあたえることもできます。一週か二週おいて続報を掲載しても、前回の記事を受けて書いたということにすれば、それも“連続追及”で通るわけです。その間に新しいネタを仕入れればいいし、目ぼしい新情報がなければ同じことをおさらいしたり、多少アレンジしたりで記事はできます。もっとも、おいしそうなネタは小出しにすればいいんです。読者に飽きられないていど続けて、しばらく休んでまた載せる、それを断続的にくりかえすというケースもあります。もちろん、これは宗教ネタに限ったことではないですが」
場合によっては他の雑誌やテレビが「後追い」することもないわけではない。
それどころか、なかには特定のメディアが互いに“追及”のリレーやキャッチボールをおこなうこともあるのだ。




「イエスの方舟事件」にみる信仰共同体への無理解と偏見

リレーやキャッチボールといっても、それぞれのメディアが自主的な判断にもとずいて取材し、他杜と競合しスクープ合戦を展開する場合もあれば、いくつかのメディアがお互いに連絡をとり合って情報交換しながらキャンペーンをはる場合もある。
たとえば毎日新聞社が出している週刊誌『サンデー毎日』は、いまから十三年ほど前に世間を騒がせた「イエスの方舟」事件の際には、他のメディアが軒並み批判的に事件を取り扱うなかで、ほとんど唯一、「イエスの方舟」擁護の立場で連続キャンペーンをはっていた。
「イエスの方舟」とは、約二十名ほどの小集団であり、ミニ教団というよりも、千石剛賢という男性を中心者とした“キリスト教および聖書の勉強会”つまり、たんなるサークルであった。ただ、ふつうのサークルと違っていたのは、信徒たちが中心者の千石氏とともに集団で寄宿生活を行っていたということである。
この点からいえば、「イエスの方舟」は文字通りミニ共同体であり、宗教が組織化していく際のもっとも原初的な形態の信仰共同体であったといえよう。
「イエスの方舟」の信徒は高校生や若いOLたちが多く、それぞれが個人的に抱えていたさまざまな問題や悩みの救いを求めて「イエスの方舟」つまり、千石剛賢氏のもとへやって来たわけである。
信徒たちは、それぞれのもつ問題を「解決する」という目的のために「イエ
スの方舟」を訪れ、みずから望んでそこでの共同生活を送っていたわけであるが、信徒の家族たちにはそれが理解できなかった。
信徒たちの共同生活を家族たちは「家出」ととらえ、「うちの子が家出するわけはない」→「子どもたちはだまされている」→「だましたのは怪しげな宗教だ」と思考をエスカレートさせ、何名かの家族は警察に捜索願いを出すなどした。
そうこうするうち、千石氏と二十数名の信徒が集団で姿を消すという行動にで、その後、約二年もの間、行方がわからなくなった。家族たちの訴えからマスコミはいっせいに「イエスの方舟」を批判的にとりあげ、彼らの行方を探し、民杜党の議員は国会で「狂信的」宗教としてとりあげるなどした。
当時のマスコミの「イエスの方舟」報道には、「人さらい」「誘拐」「女性を食いもの」などといった文字が数多く躍っていたが、そういったマスコミのなかで、『サンデー毎日』だげは、鳥井守幸同誌編集長による《「千石イエス」独占会見記》(昭和五十五(一九八○)年七月十三日号)を掲載するなどし、他の多くのマスコミとは対照的に「イエスの方舟」擁護のキャンペーンをはったのである。
一部のマスコミからは、同誌の報道姿勢に対して「方舟べったり」とか「方舟の宣伝誌」などといった声も多少きかれたが、結果的には『サンデー毎日』のほうが正しかった。
この“事件”で渦中の千石氏は書類送検されたが、それは「誘拐容疑」でもなんでもない「名誉棄損容疑」であり、それも昭和五十六(一九八一)年五月二十九日に不起訴処分の決定が東京地検より下され“騒動”の幕は降りた。
『サンデー毎日』は、この千石氏不起訴の発表をうけて「イエスの方舟いま自由への出帆」(サブタイトルは「明白になった警視庁の敗北」)と題する記事のなかで、
「“事件”は幻であった」「火も煙もなかった!」とまとめた(六月二十一日号)。.




「才ウム真理教」はなぜ撃たれたのか

組織の大小にかかわらず、教団およびその教祖なり会長なりといった最高責任者の存在が世間の注目を浴びるようになると、かならずスキャンダルの暴露が行われる。それは一面ではその教団なり教祖なりが杜会的に認知されたことの一種の証明でもあり、有名税であるのかもしれない。
戦前の大本教に対する国家権力主導の
「淫祀(いんし)邪教」キャンペーンと、弾圧による徹底的な教団破壊は、その典型的な例であるということができる。かつては国家権力の明確な意志によって情報操作がなされ、マスコミもそれによって躍らされた(みずから躍ったケースも少なくはない)が、こんにちではわざわざ権力が情報操作を試みなくても、マスコミは躍ることをおぼえてしまっている。
マスコミすべてがそうであるとはいわないが、一部のマスコミに関していえば、清報の信憑性をうんぬんしていて他杜に抜かれるよりも、これこれこういう話がある、とまず始めに手を着けるほうが重要と考えているようである。もちろん、これも宗教ネタに限ったことではないのだが。
「イエスの方舟」のケースでは、『サンデー毎日』以外のほとんどのマスコミが「イエスの方舟」は「狂信的」という前提のもとに批判記事、を大量生産したが、この『サンデー毎日』もじつは後になって同じ穴のムジナに変身してしまう。
昭和六十四(一九八九)年十月十五日号から約二ヵ月の間にわたって行われた「オウム真理教の狂気」と題する批判キャンペーンがそれである。
ごていねいなことに『サンデー毎日』は記事の見出しで《これは「イエスの方舟」とはちがう》と記したうえで、オウム真理教の信徒の家族らからの一方的な情報を大前提に論理を築き上げ批判キャンペーンを展開し続けたのである。
「イエスの方舟」のケースでは擁護にまわった『サンデー毎日』が、こんどは一転して教団批判をはじめたことは、マスコミからも注目されたし、一般にもスムースに受け入れられた。
それは、イエスの方舟のような小さな宗教の味方をしたことが一種の勲章となり、「そんな『サンデー毎日』が批判する教団だったらやっぱりいかがわしいのだろう」と世間に思わせることに成功したということである。
『サンデー毎日』は本気で「オウム真理教」を追いつめようとしたようであるが、批判キャンペーンが終わっても「オウム真理教」そのものに実質的にこれといったダメージはなかったようである。
しかし、この年の十一月の末に、「オウム真理教被害者の会」の坂本弁護士一家が行方不明となった事実が明らかになると、坂本弁護士宅に「オウム真理教」のバッチが落ちていたこともあって、一家は「オウム真理教」に「拉致監禁」されたのではないかと、テレビ・週刊誌はいっせいに大騒ぎをはじめた。
宗教関係者は当初から「オウム犯人説」には否定的な見方をとっていたが、こんにちでは一般のマスコミ関係者も「オウム犯人説」はありえないという見方に落ちついている。
「イエスの方舟」は、いってみれば「漂泊のミニ信仰共同体」であり、「教団」どころか組織らしい組織もない、たんなる「小集団」であったし、その活動内容も、信徒たちが生活費を得るためにスナックなどで働いていたという点が多少の興味をひいたていどで、「おとなしい共同体」だった。
いっぽう「オウム真理教」は、ぬいぐるみをかぶっての選挙活動や活発な出版活動をくりひろげ、地方の中規模の会杜を経営したり、九州に土地を購入して「共同体」をつくるなど、「めだつ教団」といえよう。
「出る杭は打たれる」というが、「オウム」の揚合は他の教団と比較してもあまりにめだっており、社会が「公序良俗」の建前で動いているかぎり、パフォーマンスの豊かな「オウム」は打たれるべくして打たれたといえるだろう。
余談ではあるが、『サンデー毎日』の「オウム告発キャンペーン」に対して、『SPA!』は宗教学考の中沢新一とオウム真理教の教祖である麻原彰晃との対談で誌面を飾みなどして「オウム真理教」に好意的であったが、『SPA!』の発行元である産経新聞杜は「イエスの方舟」のときには『サンケイ新聞』で、非難中傷ともとれるかなりきわどい「イエスの方舟」批判を展開していた。両者の立場が正反対に入れ替わってしまったところに興味深いものを感じる。




知名度の高いミニ教団「コスモメイト」がヤリ玉に

さて、二つの「宗教」に対する『サンデー毎日』の扱い方を見てきたが、「イエスの方舟」のときと「オウム真理教」のときでは、その姿勢が全く違っていることは明らかだろう。
そして、最近また『サンデー毎日』が「ミニ教団たたき」をおこなった。
「コスモメイト」というミニ教団と深見青山という主宰者がターゲットである。
「コスモメイト」は、東京杉並区に本部事務所を置き、全国に約百カ所の支部と会員二万人強を有する神道系の新宗教であるが、昭和六十(一九八五)年に発足した。ただし現段階では宗教法人ではなく法律的には任意の宗教団体である。
ある新宗教教団関係者は、
「教団としての歴史は十年にも満たずまだ短いですが、主宰者の深見青山氏が精力的に著書を発表し、いずれもベストセラー、角川文庫に収録されている著書もありますから知名度はあります。教義的には深見氏がかつて所属していた大本教の影響のあるようですが、神とのお取り次ぎをするのは霊能力者である橘カオルさんであり、深見氏は審神者(さにわ)という立場でしょう。ここにも、出ロナオと出口王仁三郎の関係に相似している部分が見受けられます。さらに深見氏の場合は作曲したりみずから歌をCDアルバムにしたりと、パフォーマンスという点でも出口王仁三郎的です」という。
知名度のわりには会員数が二万人強というのはさびしいのではないかと門外漢には思えるのだが、別の教団関係者はつぎのように語る。
「ひとつには入会するひとも多いが辞めていくひとも多い、ということかもしれませんね。新陳代謝が激しいということで、組織的には常に活性化しているというプラスの側面と、活動会員の入れ替わりがひんぱんにおこるために磐石な組織をなかなかつくれないというマイナスの側面があると思います。ただ、コスモメイトさんは積極的な勧誘をあまりしていない、というよりも、われわれと比較したら全く勧誘していないにひとしいと言っていいくらい、それで二万数千人の会員が現にいるということは、やめた数も含めた延べ会員数はかなりの数になるんじゃないですか」
つまり「コスモメイト」は深見氏のパフォーマンスなどによって会員を増やしてはいるももの発展途上といってよく、教団組織としてはいまだ試行錯誤の段階、にあるということのようである。
なぜ『サンデー毎日』はこのようなミニ教団を「オウム真理教」に続いて「批判」したのだろうか。また、『サンデー毎日』の「批判」はじっさいにどのような性質のものなのだろうか。




信憑性一割未満の記事で「激震スクープ」といえるか

まず、『サンデー毎日』が「コスモメイト」を「批判」するにあたって、どのような大義名分を立てているか、それをみてみよう。「徹底追及!第一弾」の文末にはつぎのようにある。

《本誌はこれまで、オウム真理教や幸福の科学、本覚寺など、宗教団体のさまざまな間題を取り上げてきた。
ワラをもすがる思いで神仏を信じ、なけなしのカネをむしり取られてきた市民、宗教法人に対する優遇税制の陰で、捻出される巨大な裏金……。
そこにはバブル経済に浮かれ、札束で頬を叩いて土地や株、美術品を買いあさった後、今度は悩める心の救済までカネで買おうとする姿勢がチラチラする。そして、それに群がる闇の紳士たち。本誌は、すでに世の中に蔓延している「心、をカネで買う時代」を、徹底追及したい。》
なるほど、《なけなしのカネをむしり取られてきた市民》に同情し、不正をはたらく《宗教法人》や《闇の紳士たち》によって《世の中に蔓延している「心をカネで買う時代」を、徹底追及》する企画の最初のターゲットとして「コスモメイト」を選んだということらしいが、なぜ「コスモメイト」を選び、なぜ徹底追求しなければならないのか。
たしかに、『サンデー毎日』の記事をそのまま鵜呑みにして読めば、《深見青
山教祖》は《まるで暴力団》で《カネ儲けのこととなると抜群に頭が働く》とんでもない人物ということになる。

しかし、この記事、じつのところ九割以上信用できないといっていい。リードの文を含め本文五一○行中信頼できるのはわずか四四行しかないのだ。つまり約七%しか信愚性がないのである。
なぜかといえば、「コスモメイト」の概略について記した二二行、解雇された職員が組合をつくったという事実を記した四行、そして「コスモメイト」広報担当者のコメント部分十八行、以上合計四四行以外は、すべて怪文書と匿名人物たちによる「コスモメイト」批判のコメントで成り立っているからである。匿名でしか発言しないということは、発言に対する責任を回避しているということにほかならない。そのような無責任な発言で構成した記事を、どうしたら信用できるというのか。信用などできるわけがないではないか。
しかも、本文冒頭に紹介された怪文書は「コスモメイト」職員をみずから辞職したにもかかわらず組合に参加した人物たちによるものであるという。
すなわち、『サンデー毎日』の記事は、意図的にリークされた情報にもとづいて創られたものと考えることもできるのだ。




俳優・秋野太作氏が情報をリークした宗教ハシゴ者を語る

『サンデー毎日』の《徹底追及!第一弾》に続いて、『週刊実話』の四月二十二日号は、《教祖セクハラ告訴で噴出したSEXと新興宗教の「性教不可分」》というタイトルの記事を掲載したが、『週刊実話』にしてはめずらしく、まともな内容の記事づくりをしている。
記事の冒頭こそ「セクハラ告訴」について原告代理人である弁護士のコメントを紹介しているが、《告訴のカゲに内紛騒動》として、「セクハラ告訴」だけでなく、元職員たちによる組合結成や地位保全の提訴などは、「コスモメイト」をみずから辞めた元No.3の山田久一(仮名)とつながりがあるらしいという証言を紹介している。この山田氏、本名を村田聽久こと村田康一というが、一年ほど前から深見氏の追い落としを図って、さまざまに画策していたという情報もある。
また、俳優の秋野太作氏は、太田出版から出した『私、瞑想者です』という著書の中で「TM(超越瞑想)」に入っていたころの村田氏についてつぎのように記している。「この男に会った時(ああ売りにしたがっているナ)と感じたものだ……。つまり、こうした事を、なにか商売の足しにしようとしているナと感じた」
秋野氏によれば、村田氏は映像学校の講師をしているという「自称、映像作家」で、それまでにも宗教のハシゴをしてきたらしく、阿含宗にいたとも言っていたというが、TMの教師になって映像学校時代の生徒を多数、TMに入れたというが、ある時、その生徒たちを引き連れ真光教に移っていったという、TMの教師時代には「いい加減なTMの本を即席で書き」教師仲問から「言動に注意」されていたという。
その後、「自分のTM時代を知る弟子のすべてを」真光に「捨ておき」、自分だけ「コスモメイト」に「入り込み」「名も変え」「やっと金になった」この男に対して秋野氏は、「あわよくば二派を興すつもりであろう』と」「内心楽しみにしている」と書いている。




サンデー毎日のコスモメイト叩きは庶民信仰者を侮る“謀略記事”か

これまでみてきたように、『サンデー毎日』の「コスモメイト叩き」は、ある一定の思惑のもとでリークされた情報に、あまりにも無思慮に飛びついたために、期待されたとおりの記事を創り、みずからのお粗末さかげんをまったく自覚することなく、カッコだけエラソーに正義感ぶるという、醜さを露呈したものにほかならない。
なぜ『サンデー毎日』は、組織撹乱者のしり馬に、こうもたやすく乗ってし
まったのか。
すでに述べたように『サソデー毎日』は「オウム真理教叩き」にも精を出したが、「オウム」と「コスモ」に共通するものはなにかといえば、それは、「パフォーマンス」ではないだろうか。
「イエスの方舟」は目立たずおとなしく漂泊し、ただ身を隠しただけであった。それに対して「オウム真理教」も「コスモメイト」も、外部に向けてさまざまにパフォーマンスを繰り広げた。そのバイタリティー溢れる活動は、おそらく『サンデー毎日』の考える「宗教」のイメージとは遠くかけ離れたものであったのだろう。それに対する嫌悪感こそが「オウム真理教」「コスモメイト」叩きに駆り立てたのではないだろうか。
民衆宗教そして庶民信仰者を侮り、それを叩くことはそんなに気持ちよいか!ヨタ記事に苦しめられた怒りを鎮めることこそ真のジャーナリズムではないか?



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